祖父へのインタビュー
~絵画と共に暮らした生涯~
<自宅:2004年2月10日午後2時45分から30分程度>
今回のインタビューでは、昨年まで日比谷パークビルで画廊を経営していた私の祖父の山縣悠紀夫さんが、様々な質問に答えてくれました。祖父が絵に関心を持ったきっかけや第二次世界大戦の激戦中に描いた絵、戦後経営するようになった画廊について、この機会をもってたくさん聞かせてもらうことができました。ここで、インタビューの内容を簡単にまとめておきたいと思います。
Q. 絵を描くことに初めて関心を持ったのはいつ頃ですか?そのきっかけは何ですか?
A. ヨーロッパに関係の深い家に育ち、当時としては珍しいカラーの名画の写真集を見ることができた。それと、プロの絵描きを目指す親類の青年が、北海道から東京のおじいちゃま(自分)の家に来て、何年間も絵の勉強をしている傍にいたのも良い刺激だったと思う。
Q. でもその後、第二次世界大戦で、海軍の士官として戦争に参加した時も絵を描けたのですか?
A. 昭和16年に大学を卒業して三井の銀行に入ったけれど、それから半年後に戦争が始まって、おじいちゃまは戦艦に乗ったり、陸戦隊の仲間とフィリピンルソン島南部のレガスピーに敵前上陸したりした。ちょうどクリスマスの時期で、セントアグネスというカトリックの女子学院のお御堂でシスター達が、いつもと変わらぬ様子で賛美歌を歌っていたのに感激した。これが、戦後おじいちゃまがカトリックの信者になる動機となった。
その後南方のアンボン島に上陸して、戦士に残る大激戦があった。その戦争における功績の褒美として、海軍の司令長官から感状を頂いた。その感情を誇りに思って初めは東京の家の応接間にある額に入れて飾っていたけれど、戦争に負けたので勝った国からしてみれば敵の功績だから、戦犯にされたら大変だと、今みたいに大切にしまって保管することにした。その感状をもらった激戦の時に手近の紙にスケッチした絵もある。その戦争での敵国はオランダであった。フィリピンでは、アメリカと戦った。日本は世界中のあちこちに敵をつくっていた。(笑)
Q. 終戦後は、どのような経緯で画廊を経営するようになったのですか?画廊を経営していて良かったことは何ですか?
A. 昭和20年に終戦し、日比谷に戦後初の本格的なビルができたのは昭和27年のことだった。画廊には、専門家の絵を売る画廊と、一般の絵の同好の人が作品を陳列する為の場所を提供する貸画廊がある。おじいちゃまの画廊は後者の、絵を売ることが目的ではなく、場所代を払ってもらう代わりに展覧会のできる貸画廊であった。日比谷パークビルは、周辺に日比谷公園、皇居や帝国ホテルなどがあって、人が集まる地の利を得た場所だった。そのため、画廊も評判が良かった。
絵の友達もたくさんできて、一緒に絵の旅行でフランスやスペインに行ったり、国内を旅行したり、東京都内を巡ったり、或いはモデルを雇ってその人の絵を描いたりして、その時に描いた絵をおじいちゃまの画廊に陳列して、友人や知り合いに見て貰った。画廊では絵だけじゃなくて、陶器・漆器・人形などの工芸品も展覧することができた。
Q. 画廊を経営していて一番大変だったことは何ですか?
A. 画廊を貸す商売というのは、都内にたくさんある。その中で評判を良くするためには、まず場所が重要な条件となる。日比谷は地下鉄が通っていて、先程言ったように近くには日比谷公園や皇居などもあって、場所として非常に良かった。他にも広さ・照明、応接などの条件があった。幸いにも、画廊の目の前には喫茶店があって、ちょうど応接間のような役割を果たしてくれていた。(笑)
Q. どうして画廊を閉めることになったのですか?
A. おじいちゃまは画廊を閉めるつもりはなくて、誰かに引き継いでもらえたらいいなって思っていたんだけれど、日比谷バークビルができてから50年経って、ビルの持ち主の三菱地所がホテルを作る為にビルを建て替えることになった。希望者は同じ規模で、三菱地所の所有するビルならばどこにでも移し替えて、今と同じ費用で経営を続けることができたんだけれど、もう少し若ければ、画廊の続きがやりたかった…でも、今年でもう88歳になるから、移転しないで画廊を閉めることにした。
Q. 今でも絵を描いていますか?
A. 絵の勉強には上限がなく、今でも上野美術館の中の教室で週一回モデルを雇って勉強している。また、絵の友達と東京都内の様々な展覧会を見に行き、かつて自分の画廊でしていた展覧会も、よその画廊を借りて続けている。これからも、いい絵を見たり、描いたりしていきたい。
祖父からの感想
アイリーンへ
アイリーンとの対話で自分の生涯を振り返る機会を得ましたが、生涯を自分の趣味と共に過ごし、87歳の今日、娘、孫達に囲まれて平和な余生を送っていることを感謝せずにおれません。
楽しいことばかりではなく、苦労も十分に味わってきましたが兎に角恵まれた生涯であったことは事実です。
アイリーンもこれから先、楽しいことばかりではなく、色々難しいことにも会うことと思いますが、それにつけても何か生涯を豊かにする趣味を見つけて、自分から幸福を手にして恵まれた生涯を送ることが出来るよう祈っています。
平成16年2月23日
祖父 ジョン・タスコ
インタビュー記事をまとめての感想
祖父との対談はとても楽しく、またそれによって色々なことを学んだ。戦争を乗り越え、その後画廊を開き、絵画という趣味と共に生涯を過ごしてきた祖父は、私にとって本当に尊敬できる人である。今の自分は平和な世界に生き、その中で自分の趣味となるものを探し求めているが、この先たとえどんな苦労があっても、祖父のように屈せずに好きなことをやり続ける、幸せな人生を送りたいと思っている。
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